稲城市のゆぎおすのブログ
2024年2月5日
初代高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年6月18日 - 1998年2月5日)は
津軽三味線の名人。本名高橋定蔵。
一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。
演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。
3歳の時に麻疹をこじらせて半失明します。
その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった
戸田重次郎から三味線と唄を習い、
17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたといいます。
1963年、キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード
『津軽三味線 高橋竹山』を発売。
これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得ます。
1964年、雲竹の引退・隠居により雲竹・竹山のコンビを解消。
1971年、青森放送で
竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。
一般にその名を知られるきっかけとなりました。
番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出されます。
1973年、小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。
その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え
津軽三味線ブームのさきがけとなりました。
1975年、自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。
1977年、新藤兼人脚本・監督により
映画『竹山ひとり旅』が製作され、
モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品されます
(竹山役は俳優・林隆三が演じました)
1986年、アメリカ公演をし、これが世界に
津軽三味線の名を知らしめる元となりました。
ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボルチモア、サンフランシスコ、
ロサンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。
厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズは
「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を
手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」
と最高の賛辞を贈ったのです。
1993年、妻ナヨ死去。
1998年2月5日、喉頭癌により平内町立中央病院にて死去。
享年87。戒名「風雪院調絃竹山居士」。
晩年は衰えを自覚しながらも現役を退かなかったが、
内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした
竹与に二代目高橋竹山の名を譲りました。
他にも弟子はいたが、竹与だけが教授活動を一切せず
演奏活動だけで生活していたことを認め、その行く先を心配してのことでした。
他の弟子として高橋栄山、孫弟子として山本竹勇、高橋竹仙などがいます。
<故郷・青森のお寺に>
戒名「風雪院調絃竹山居士」
青い森鉄道線小湊駅そば、東津軽郡平内町の東福寺に眠ります。合掌=
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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