稲城市のゆぎおすのブログ
2024年9月5日
黒澤明のお墓(9月6日が命日)
黒澤 明(または黒沢 明、くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 -
1998年〈平成10年〉9月6日)は、
日本の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。位階は従三位。
第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、
国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされています。
ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、
ヒューマニズムを基調とした主題で知られます。
生涯で30本の監督作品を発表しましたが、
そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組みました。
青年時代は画家を志望していたが、1936年に
P.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、
山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、
1943年に『姿三四郎』で監督デビューしました。
『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で
日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)で
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、
日本映画が国際的に認知されるきっかけを作りました。
その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが
高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られました。
1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、
その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなりますが、
海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、
『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けます。
1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞。
没後に、映画監督として初の国民栄誉賞が贈られました。
1993年11月、山本周五郎の2つの短編小説を元にした
『海は見ていた』の脚本を執筆し、
映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念。
そこで同じ山本原作の『雨あがる』の脚本に取りかかるも、
1995年3月に定宿である京都の旅館「石原」で執筆中に転倒骨折し、
脚本は完成することなく終わり、それ以降は車椅子生活を強いられます。
その間の1996年に日本エアシステムの機体MD-90のデザインを担当し、
1997年にはカルピスのために自筆の絵コンテを
CGでアニメーション化したテレビCM「初恋」を制作し、
初めてのCM制作でデジタル表現に取り組みました。
同年12月には盟友の三船敏郎が死去しますが、
翌1998年1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、
長男の久雄が弔辞を代読しました。
1998年9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で
脳卒中により死去。88歳没。
9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八、司葉子、
谷口千吉、仲代達矢、香川京子、千秋実、侯孝賢など約3万5000人が参列します。
ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロス、
アッバス・キアロスタミなどからは弔電が届きました。
海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、
フランスのジャック・シラク大統領も追悼談話を発表しました。
黒澤は無宗教だが、妻(1985年に死去)が眠る鎌倉市の安養院に納骨され、
「映明院殿紘国慈愛大居士」の戒名が送られ、従三位に叙されました。
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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