稲城市のゆぎおすのブログ

福沢諭吉のお墓(12月3日が命日)

2024年12月3日

福沢諭吉のお墓(12月3日が命日)

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、 新字体: 福沢 諭吉、
旧字体:福澤 諭吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉-
 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から
明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。
慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。
揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。
雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。

慶應義塾(旧蘭学塾、現在の慶應義塾大学)の他にも、
商法講習所(現在の一橋大学)、神戸商業講習所
(現在の兵庫県立神戸商業高等学校)、伝染病研究所
(現在の東京大学医科学研究所)、土筆ヶ岡養生園
(現在の東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力しました。
新聞『時事新報』の創刊者でもあります。

ほかに東京学士会院(現在の日本学士院)
初代会長も務めました。さらに、
この業績を基に「明治六大教育家」として列されます。
昭和59年(1984年)11月1日発行分から
日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に
採用されました。平成16年(2004年)に
二千円紙幣以外の紙幣が刷新された時に
唯一肖像が引き継がれましたが、
令和6年(2024年)7月3日発行の
新紙幣からは渋沢栄一となりました。

晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を
強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を
企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、
北里柴三郎の伝染病研究所の設立を
援助したりしたことなどが挙げられます。
また明治30年(1897年)8月6日に
日原昌造に送った手紙の中には
共産主義の台頭を憂う手紙を残しています。

諭吉は明治31年(1898年)9月26日、
最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、
このときには回復します。その後、
慶應義塾の『修身要領』を編纂します。
しかし明治34年(1901年)1月25日、
脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去。
享年67(66歳没)。7日には衆議院が
「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる
福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」
という院議を決議しています。
8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から
麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わりました。

諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、
慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を
示した石碑が設置されています(旧居の基壇の一部が今も残る)。
戒名は「大観院独立自尊居士」で、
麻布山善福寺にその墓があります。
命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、
塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参します。

福沢諭吉のお墓(12月3日が命日)の画像1福沢諭吉のお墓(12月3日が命日)の画像2

店舗情報

店長の写真

店長:源川 準

礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行

所在地

〒2060823
東京都稲城市平尾1-45-2サイレントパーク15−203

営業時間

平日9:00 〜18:00 土日祝12:00 〜17;00

定休日

年中無休

対応地域

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