稲城市のゆぎおすのブログ
2024年12月2日
沢村栄治のお墓(12月2日が命日)
沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、
1917年〈大正6年〉2月1日 - 1944年〈昭和19年〉12月2日)は、
三重県出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。
日本プロ野球黎明期に伝説的な活躍を見せた
不滅の大投手。1934年の日米野球では
持ち前の快速球でベーブルースやルー・ゲーリックら
メジャーリーグ選抜を手玉に取ったほか、
二度の渡米遠征で活躍するなど、
"スクールボーイ・サワムラ"として
野球の本場アメリカでもその名を馳せました。
日本で職業野球が開始されると、
巨人の初代エースとなり1936年の初優勝に
大きく貢献。1937年春季には史上初の
投手5冠に輝き、初代最高殊勲選手(MVP)を受賞。
のち、史上最多タイの3回の
ノーヒットノーランも達成しています。
しかし、兵役で肩を痛めて快速球の威力は失われ、
三度の応召を経て1944年戦死。戦後の1947年に
功績が称えられて巨人の背番号14は
初の永久欠番に指定されます。また、記念として
同年に設立された最も活躍した
先発完投型投手に贈られるタイトル
「沢村賞」にその名を残しています。
1959年に野球殿堂入り。
1944年10月2日に2度目の召集を受け、
現役兵時代を含め3度目の軍隊生活に入ります。
この時は襷も掛けず、見送りもなく、
父の賢二のみが付き添って京都の
歩兵第9連隊に入営します。
沢村は巨人から解雇されてさすがに気落ちしており、
賢二に「大投手などと煽てられていい気になっていた、
わしがあほやったんや」と語りますが、
自分を責めるだけで正力や
巨人に対する恨みごとは言わず、
入営時には笑顔を見せました。
同年12月2日にフィリピン防衛戦に向かうため、
乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の
東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により
撃沈され、屋久島沖西方で戦死。
特進で任陸軍伍長(墓標などでは特進前の兵長表記)。27歳没。
故郷に程近い伊勢市岩渕町一誉坊墓地に
沢村の墓が建立されており、その墓石は
ボールを模した形で、前面に巨人の「G」、
後面に沢村の背番号「14」が刻まれています。
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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