稲城市のゆぎおすのブログ
2024年12月7日
二代目大川橋蔵のお墓(12月7日が命日)
二代目 大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう、
1929年(昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は、
東京都出身の日本の歌舞伎役者、俳優。
本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。
柳橋の芸妓の子として出生し、生後まもなく
小野家の養子となります。養父は市川瀧之丞という
歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと
幼いころから舞踊を仕込みます。
のち、知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子とした。
1935年(昭和10年)11月、市川男女丸を名乗って
初舞台を踏みます。そのとき舞台を務めていた
六代目尾上菊五郎に素質を認められ、
以後目をかけられるようになります。
1944年(昭和19年)10月には六代目の妻・寺島千代の養子となり、
その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに
二代目大川橋蔵を襲名します。
「大川橋蔵」は、かつて三代目菊五郎が一旦引退した後、
舞台復帰した際に名乗った由緒ある名跡です。
実子がないので養子(七代目尾上梅幸)をとったら、
いまさらながらに実子(二代目尾上九朗右衛門)に
恵まれてしまったという複雑な家庭の事情をもつ六代目が、
この名跡を橋蔵に与えて妻の養子とした意味は大きいです。
橋蔵をもう1人の「菊五郎」の継承者候補とすることで、
3人の子はより一層の切磋琢磨を
強いられることになりました。
このころから六代目は体調を崩しはじめ、
晩年はその芸が曇りがちになりますが、それでも
橋蔵は1949年(昭和24年)7月に六代目が死去するまで
一つ屋根の下で暮らしを共にし、音羽屋相伝の芸のみならず、
役者として、そして大看板として
自身がいかにあるべきかを身につけていきます。
1955年12月、『笛吹若武者』でデビュー。
しかしこの時は歌舞伎に籍を置いたままでした。
2作目の『旗本退屈男』を撮った後マキノ光雄の誘いに応じて
東映に入社。デビュー作『笛吹若武者』で共演した
美空ひばりから、本名の富成をもじっていきなり
「トミー」というニックネームをつけられ戸惑ったが
これが映画界の洗礼となります。
この後、東千代之介・中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は
「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、橋蔵も若手時代劇スターを
代表する1人として昭和30年代の日本映画黄金時代の
立役者となっていきます。
1960年代以降、映画全般がテレビに押されて
時代劇は斜陽の時代に入り、東映がヤクザ映画に路線転換していくと
舞台やテレビに活動の場を移します。
祇園で馴染みの芸妓であった沢村真理子と1966年3月に結婚。
1966年5月からフジテレビで『銭形平次』が放映を開始。
以後終生にわたる当たり役となります。
1960年を過ぎるとテレビも家庭に浸透しており、
それに伴う観客の目減りを押さえるのに
必死だった映画会社は五社協定によってテレビに
映画俳優を貸さない姿勢を強めていました。
フジテレビでは橋蔵をテレビ時代劇にと考え頼んだが、
これを見た東映は貸さないと断ります。
別の俳優だったらと里見浩太朗へ話を持っていくが、
里見がVTRにこだわったため
橋蔵に白羽の矢がたちました。
映画会社が貸し渋る俳優のなかには
いざ解禁しても時すでに遅し、鮮度を失った俳優が多くいたため
橋蔵の銭形平次は映画スターが茶の間で見られることと、
映画当時の橋蔵ファンが結婚して家庭で
テレビを見られる世代へとそのままスライドし
高視聴率にもつながります。
1984年4月4日、『銭形平次』が最終回を迎え
18年間で888回におよぶ長期シリーズに終止符を打ちました。
この時点で「1人の俳優が同じ主人公を演じた
1時間ドラマ」としては世界最高記録となり、
ギネスブックに認定されています。
橋蔵は1983年9月ごろより体調を崩し、
入退院を繰り返しました。橋蔵の遺作となった
『蝶々さんと息子たち』の撮影中に倒れ、
11月25日の最後となる入院時、
すでに結腸癌が肝臓に転移している状態でした。
病名は橋蔵には告げらませんでしたが、
自らの病気を察知し医師に対して
「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、
いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、
何故こんな病気になったんですか!?」と訴えたといいます。
橋蔵は1984年12月7日午前1時29分、
結腸癌のため死去した。55歳没。
東京都の雑司ヶ谷霊園に平次親分は眠ります。
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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