稲城市のゆぎおすのブログ

淡谷のり子のお墓(9月22日が命日)

2024年9月22日

淡谷のり子のお墓(9月22日が命日)

淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年〈明治40年〉8月12日 -
 1999年〈平成11年〉9月22日)は、青森県青森市出身の日本の女性歌手。
日本のシャンソン界の先駆者として知られ、
愛称は「ブルースの女王」。叔父は政治家の淡谷悠蔵。

青森県立青森高等女学校中退→上京を経て東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学→
後に声楽科に編入。同声楽科では、荻野綾子、久保田稲子に師事。
1929年(昭和4年)に同声楽科を首席で卒業。
同年春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)で歌唱し、
「10年に一度のソプラノ」と絶賛されました。
1930年(昭和5年)にポリドールから『久慈浜音頭』で歌手デビュー。
翌1931年に日本コロムビアへ移籍し、いわゆる古賀メロディーの
『私此頃(このごろ)憂鬱よ』がヒットし、
流行歌手としてその名が知られるようになりました。
1935年(昭和10年)に発表した、シャンソン曲『ドンニャ・マリキータ』が
ヒットしたことから、日本におけるシャンソン歌手の第1号となりました。

晩年の1996年(平成8年)には寝たきりとなり、療養生活を送るようになります。
2歳歳下の実妹・淡谷とし子がピアノ教師の職を辞して、
老老介護を担う。同年8月、菅原洋一、島倉千代子、五輪真弓ら後輩歌手によって
淡谷の米寿記念コンサート「淡谷のり子さんの米寿を祝う会~ベージュ色のステージ~」が
東京プリンスホテルで催され、久々に公の場へ姿を見せました。
このコンサートにおいて森進一に『別れのブルース』を、美川憲一に『雨のブルース』を
「それぞれ形見分けでは無いですが差し上げます。歌っていって下さい」と発言し、
大きな話題を呼びました。
しかしこの形見分けは周囲が勝手に御膳立てしたもので、
淡谷本人やとし子は全く知らされておらず、
報道後も形見分けなどは一切認めていませんでした。
そして、コンサートの最後に全員で「聞かせてよ愛の言葉を」を合唱したのが、
淡谷が公の場で歌唱した最後となりました。
最晩年の1998年(平成10年)10月には故郷・青森県青森市の名誉市民に選ばれ、
推戴式に車椅子姿で出席したのが公の場での最後の姿となりました。
1999年(平成11年)9月22日午前4時30分、
老衰のため東京都大田区上池台の自宅で死去。92歳没。
淡谷の死はスポーツ紙のみならず一般紙でも一面で報じられ、
複数の追悼番組が放送されたほか、多くの雑誌で追悼記事が掲載され、
後輩歌手から悲しみのコメントが相次ぎました。
同年10月、東京・護国寺で音楽葬が営まれ、
祭壇は『雨のブルース』の音符を模した飾りが施されました。
その後青森市の三内霊園に埋葬されました。
ステージ衣装が一着のみではあるが、群馬県渋川市の
日本シャンソン館に展示されています(2006年6月時点)。

淡谷のり子のお墓(9月22日が命日)の画像1淡谷のり子のお墓(9月22日が命日)の画像2

店舗情報

店長の写真

店長:源川 準

お遍路の気持ちでお墓参りします!

所在地

〒2060823
東京都稲城市平尾1-45-2サイレントパーク15−203

営業時間

平日9:00 〜18:00 土日祝12:00 〜17;00

定休日

年中無休

対応地域

<関東>

東京都

  • 昭島市
  • 稲城市
  • 多摩市
  • 調布市
  • 府中市
  • 町田市
  • 三鷹市
  • 武蔵野市

神奈川県

  • 愛甲郡愛川町
  • 愛甲郡清川村
  • 海老名市
  • 鎌倉市
  • 川崎市麻生区
  • 川崎市川崎区
  • 川崎市幸区
  • 川崎市高津区
  • 川崎市多摩区
  • 川崎市中原区
  • 川崎市宮前区
  • 相模原市中央区
  • 相模原市緑区
  • 相模原市南区
  • 座間市
  • 大和市
  • 横浜市青葉区
  • 横浜市旭区
  • 横浜市泉区
  • 横浜市磯子区
  • 横浜市神奈川区
  • 横浜市金沢区
  • 横浜市港南区
  • 横浜市港北区
  • 横浜市栄区
  • 横浜市瀬谷区
  • 横浜市都筑区
  • 横浜市鶴見区
  • 横浜市戸塚区
  • 横浜市中区
  • 横浜市西区
  • 横浜市保土ケ谷区
  • 横浜市緑区
  • 横浜市南区