稲城市のゆぎおすのブログ

司馬遼太郎のお墓(2月12日が命日)

2024年2月12日

司馬遼太郎のお墓(2月12日が命日)

司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年〈大正12年〉8月7日 -
1996年〈平成8年〉2月12日)は、日本の小説家、
ノンフィクション作家、評論家。
日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
位階は従三位。
本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。
筆名の由来は「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から。
大阪府大阪市出身。
産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。
歴史小説に新風を送る。
代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』
『国盗り物語』『坂の上の雲』などがあります。
『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも
活発な文明批評を行いました。

初期は直木賞を受賞した『梟の城』や
『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、
短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、
時代・伝奇小説が多かった司馬。
忍者を主人公にした作品が多く
「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれました。
また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も
当時として異色でありながら、
後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)
引き継がれませんでした。
推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるが、
あまり得意ではなくこの2作にとどまっています。

1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、
1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、
歴史小説家として旺盛な活動を本格化させます。
この辺りの作品より、作者自ら、
作中で随筆風に折込解説する手法が完成します。
1964年(昭和39年)には、
終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居します。
近所には付近の大地主であり上宮中学からの同級生の
山澤茂雄がおり終生交流が続いたの(「近所の記」)ちに
「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記しています。
1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受けます。
その後も『国盗り物語』に続き、
『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓しました。

1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、
連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、
大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、
2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去します。72歳。
同日は「菜の花忌」と呼ばれています。
死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた
大村益次郎が死去した場所でした。
絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、
3月10日に大阪市内のホテルで
「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列しました。
法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜されました。

<京都に眠る>
京都の京都大谷本廟に司馬遼太郎は眠ります。合掌=

司馬遼太郎のお墓(2月12日が命日)の画像1司馬遼太郎のお墓(2月12日が命日)の画像2

店舗情報

店長の写真

店長:源川 準

礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行

所在地

〒2060823
東京都稲城市平尾1-45-2サイレントパーク15−203

営業時間

平日9:00 〜18:00 土日祝12:00 〜17;00

定休日

年中無休

対応地域

<関東>

東京都

  • 昭島市
  • 稲城市
  • 多摩市
  • 調布市
  • 府中市
  • 町田市
  • 三鷹市
  • 武蔵野市

神奈川県

  • 愛甲郡愛川町
  • 愛甲郡清川村
  • 海老名市
  • 鎌倉市
  • 川崎市麻生区
  • 川崎市川崎区
  • 川崎市幸区
  • 川崎市高津区
  • 川崎市多摩区
  • 川崎市中原区
  • 川崎市宮前区
  • 相模原市中央区
  • 相模原市緑区
  • 相模原市南区
  • 座間市
  • 大和市
  • 横浜市青葉区
  • 横浜市旭区
  • 横浜市泉区
  • 横浜市磯子区
  • 横浜市神奈川区
  • 横浜市金沢区
  • 横浜市港南区
  • 横浜市港北区
  • 横浜市栄区
  • 横浜市瀬谷区
  • 横浜市都筑区
  • 横浜市鶴見区
  • 横浜市戸塚区
  • 横浜市中区
  • 横浜市西区
  • 横浜市保土ケ谷区
  • 横浜市緑区
  • 横浜市南区