稲城市のゆぎおすのブログ
2024年11月6日
石田三成のお墓(11月6日が命日)
石田 三成(いしだ みつなり 1560−1600)は、
安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。
豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人。
豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、
毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織しますが、
関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑されました。
通説では当初はやや西軍優勢で進み、
黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら数倍の敵を
一手に引き受けたとされていますが、
小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって
西軍は総崩れとなったとされています。
しかし、東西どちらの陣営につくか迷った
秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため
意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、
江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、
合戦後すぐに作成された9月17日付の
石川康通、彦坂元正による連署書状には
秀秋が開戦直後に裏切ったと記されています。
戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある
相川山を越えて春日村に逃れます。
その後、春日村から新穂峠を迂回して
姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から
草野谷に入ります。そして、
小谷山の谷口から高時川の
上流に出て古橋に逃れました。
しかし9月21日、家康の命令を受けて
三成を捜索していた田中吉政の
追捕隊に捕縛されました。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて
三成の居城・佐和山城は落城し、
三成の父・正継、兄・正澄を含む
石田一族の多くは自刃します。
9月22日、大津城に護送されて
城の門前で生き曝しにされ、
その後、家康と会見しました。
9月27日、大坂に護送され、
9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに
大坂・堺を罪人として引き回されました。
9月29日、京都に護送され、
奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれます。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首されました。
享年41。
辞世は
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり」。
首は三条河原に晒された後、生前親交のあった
春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、
京都大徳寺の三玄院に葬られました。
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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