稲城市のゆぎおすのブログ

松尾芭蕉のお墓(11月28日が命日)

2024年11月28日

松尾芭蕉のお墓(11月28日が命日)

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) -
 元禄7年10月12日(1694年11月28日)[1][2])は、
江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。
幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。
俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで
桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めました。北村季吟門下。

芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、
滑稽や諧謔を主としていた俳諧[5]を、蕉風と呼ばれる
芸術性の極めて高い句風として確立し、
後世では俳聖として世界的にも知られる、
日本史上最高の俳諧師の一人です。
ただし芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好みました。

元禄2年3月27日(1689年5月16日)に
弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、
東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った
旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。

元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である
次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かいます。
途中大井川の増水で島田に足止めを食らいますが、
5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、
7月には伊賀上野へ戻ります。
9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴きます。
大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、
その間を取り持つためでした。当初は
若い珍碩の家に留まり諭したが、
彼は受け入れず失踪してしまいます。

この心労が健康に障ったとも言われ、
体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの
10日夜に発熱と頭痛を訴えます。20日には
回復して俳席にも現れたが、
29日夜に下痢が酷くなって伏し、
容態は悪化の一途を辿ります。10月5日に
南御堂の門前、南久太郎町6丁目の
花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの
看病を受けます。8日、「病中吟」と称して
『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』
を詠みます。この句が事実上最後の俳諧となりますが、
病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や
「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案しました。
10日には遺書を書きます。そして12日申の刻(午後4時頃)、
芭蕉は息を引きとります。享年50。

遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、
13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれました。
翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られます。
焼香に駆けつけた門人は80名、
300余名が会葬に来たといいます。
其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、
今も当時のままで。
なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、
丈艸(じょうそう)の筆といわれます。

松尾芭蕉のお墓(11月28日が命日)の画像1松尾芭蕉のお墓(11月28日が命日)の画像2

店舗情報

店長の写真

店長:源川 準

礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行

所在地

〒2060823
東京都稲城市平尾1-45-2サイレントパーク15−203

営業時間

平日9:00 〜18:00 土日祝12:00 〜17;00

定休日

年中無休

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