稲城市のゆぎおすのブログ
2024年12月8日
初代三波伸介のお墓(12月8日が命日)
三波 伸介(みなみ しんすけ、本名:澤登 三郎〈さわと さぶろう〉、
1930年〈昭和5年〉6月28日 - 1982年〈昭和57年〉12月8日)は、
日本のコメディアン・俳優・テレビ司会者・タレント。
昭和期を代表するテレビスターのひとり。
東京府東京市本郷区(現:東京都文京区)出身。
血液型はB型。長男は喜劇役者の二代目三波伸介。
当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。
戦後、日本大学第二高等学校卒業後に進学した
日本大学芸術学部映画学科は中退。後に浅香光代一座に参加。
ここの座員には戸塚睦夫や客演などで
玉川良一が出入りしていました。
その後東洋興業系劇場に入り、ここの座員で
石井均と追って加入した戸塚が夜間に行っていた
キャバレー回りの余興営業を
石井の都合から代わって引き継ぎます。
「三波・戸塚コンビ」で夜はキャバレーステージ、
昼間は劇場座付で舞台と活動をしていたが突然出奔。
中座、大阪へ単身で乗り込み1年余、玉川良一、
東けんじらとコント「おとぼけガイズ」を結成し、
主に大阪劇場に出演していた時期もあります。
「おとぼけガイズ」を解消後は1961年に東京の舞台に復帰し、
三波は個人として太田プロダクションに所属する一方、
キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった
伊東四朗が「三波・戸塚コンビ」として継続していました。
「(ニセ)三波伸介」として馴染み人気になっていた
伊東を外す訳にはいかずに、あらためて
「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫」と
キャバレーの司会者に自己紹介し
「三波戸塚伊東トリオ」の3人で営業活動を再開し、
あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名した。
1970年12月20日に日本テレビ『笑点』の
3代目司会者に就任。そのきっかけは、
同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した
札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により
出演できなかった前田武彦の代役として
司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、
元々落語に造詣が深かったこともあり、
並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切り、
この時の司会が好評で、三代目司会者に
すんなり収まります。豪快な外見とは裏腹に
繊細で研究熱心、台本を読み込み流れを
シミュレーションして収録に臨んでいました。
大喜利では、立川談志(初代司会者)時代の
ナンセンスなブラックユーモアを主体にした
掛け合いから、落語家の丁々発止による掛け合いに
代表されるような分かり易い
ドタバタ路線に変更。家族で楽しめる笑いにこだわり、
番組自体の人気を上げたことはもちろん、
自身がピン芸人としてブレイクするきっかけとなります。
『笑点五十年史』では三波を「笑点中興の祖」として
位置付けても異論はないと記されています。
『三波伸介の凸凹大学校』収録翌日の
1982年12月8日15時過ぎ、明かりが落ちた
自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た
妻の和子と付き人の波連太郎が発見。
救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・心停止の
意識不明状態で、解離性大動脈瘤破裂により、
意識は戻らないまま急逝した。52歳没。
肥満体であったことと、多忙のため
多い日でも3〜5時間しか睡眠を取れず、
タバコは一日最低でも3箱を吸っていたそうです。
亡くなる2ヵ月前にあった名古屋市の中日劇場での
座長公演の際には、朝食は食べず昼食は
味噌煮込みうどん、夕食はホテルで
300グラムのビーフステーキという生活を、
1ヵ月の公演中毎日続けていました。
これについて三波のマネージャーは
「健康のために嫌いなものを食べるのもひとつの生き方。
でも、好きなものを毎日食べてあの世に行くのも
ひとつの生き方」と述べています。
その一方、酒は下戸で一滴も飲みませんでした。
ビートたけしは三波の早世について、
若い頃ヒロポンを注射していたためではないかと指摘しています。
戒名は「施明院太伸三省居士」。三波の墓は
埼玉県所沢市の「所沢聖地霊園」に所在します。
墓石には、三波の座右の銘であった
「喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介」
と刻まれています。
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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