稲城市のゆぎおすのブログ
2024年1月31日
ジャイアント馬場のお墓(1月31日が命日)
ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉1月23日 -
1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラー、タレント、元プロ野球選手。
本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場 正平(ばば しょうへい)。
馬場は恵まれた体躯を生かし、主に相手のロープの反動を利用した
カウンターキックでもある「16文キック」をはじめ、
「脳天唐竹割り」「河津落とし」「ココナッツ・クラッシュ」など
長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技としていました。
<オーソドックスな戦い方>
ジャイアント馬場の試合運びはアメリカン・スタイルにのっとったもので、
常に基本に忠実なものでした。佐藤昭雄によると、
猪木と異なりギブアップ技を持たない(嫌う)とされていて、
フィニッシュまでの流れがあって勝負がつくというのが馬場のプロレスでした。
ただし不測の事態(対戦相手が掟破りの攻撃を仕掛けた場合など)においては
いわゆるシュートといわれる技術で対応しました。
アメリカ武者修行時代にフレッド・アトキンスに師事し、
関節技のノウハウを教わっていたのです。
1999年1月31日(日曜日)午後4時04分、
入院先の東京医科大学病院において、大腸癌(上行結腸腺癌)の
肝転移による肝不全のため61歳で死去。
戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。
墓所は兵庫県明石市の本松寺にあります。
元子夫人の意向により外部には馬場の病状やその生命が
危ないことを一切漏らしておらず、当時全日本の取締役に就任していた
ジャンボ鶴田や三沢光晴、
重鎮だった百田義浩やジョー樋口などにも知らせていませんでした。
馬場の最期を看取ったのは元子、姪の馬場幸子(全日本プロレス取締役)、
実姉のほか、レフェリーで運転手の和田京平、
リングアナウンサーで専属秘書の仲田龍の5人だけでした。
馬場の意向があったのですね。。
<日本武道館でファン葬が行われる>
1999年4月17日、前日(4月16日)に開催された
'99 チャンピオン・カーニバル最終戦のリングが設営されたまま、
日本武道館でファン葬が催され、2万8,000人が参列しました。
同年5月2日、全日本二度目の東京ドーム興行において
「引退記念試合」と銘打ったセレモニーを行いました。
ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。
ジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組対
ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組の
時間無制限一本勝負というマッチメイクで、
PWF会長のロード・ブレアースが立会人、
ジョー樋口が特別レフェリーをそれぞれ務めました。
<妻の隣に眠る>
馬場は生前、明石市の本松寺境内にある元子夫人の実父(馬場からすれば義父)
の墓の隣に馬場家の墓を建立してありましたが、その事実は長年知られず、
かつ当の馬場の遺骨は元子が自宅に保管していて
長らく納骨されないままでした。
元子が自身の生前に納骨をしなかったのは、馬場が墓を建てるにあたって
「一緒に墓に入ろう」という約束をしていたためでした。
馬場の死から約19年後の2018年4月14日に元子が死去し、
その四十九日に合わせて共に葬られ、
二人の約束はようやく果たされることとなりました。合掌=
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
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