稲城市のゆぎおすのブログ
2024年2月2日
シド・ヴィシャス のお墓
シド・ヴィシャス
(シド・ビシャス、Sid Vicious 1957年5月10日 - 1979年2月2日)は、
イングランドのミュージシャン、ベーシスト、パンクロッカー。
同国のパンクバンドである
「セックス・ピストルズ」のメンバーとして知られます。
バンド解散後に若くして他界しました。
そのカリスマ性と過激なパフォーマンスに人々は魅了され、
波乱に満ちた生涯がパンク・ムーブメントの
伝説として語り継がれます。
史上初めて反体制の放送禁止曲で
ヒット・チャートの頂点に立った伝説のパンク・バンド“セックス・ピストルズ”。
そのベーシストでパンク・ロッカーの代名詞が
シド・ヴィシャス(本名ジョン・サイモン・リッチー)です。
彼の名前はピストルズのヴォーカル、
ジョニー・ロットン(現ジョン・ライドン)の
飼っていたハムスターの名“シド”と、
「危険・凶暴」という意味の“ヴィシャス”を合わせたものです。
シドはピストルズの元メンバーだったグレン・マトロックが
『ビートルズが好き』という理由でクビになり、
その後釜としてバンドに迎えられました。
過激な歌詞で現代社会を攻撃しまくり、
英国王室をコケにしまくった彼らは、
保守層や右翼から敵視され、ライブ会場は常に大荒れでした。
米国南部のツアーでは「♪俺はキリストを信じない!」と叫ぶ彼らに
激怒した客がステージへハンバーガーを投げ込み、
ケチャップまみれで演奏が続けられました。
(この時興奮した客の一人がステージへ上がろうとして、
シドから脳天にベース・ギターを叩きつけられた映像が残っています)。
1978年1月18日、たった1枚のアルバムを発売しただけで
セックス・ピストルズは解散しました。
拝金主義のレコード業界や反ピストルズ運動に
メンバーがウンザリしてしまったのだとか。
シドの恋人ナンシーはドラッグ漬けで、
その影響でシドもまたジャンキーとなっていきます。
同年10月12日、ナンシーはNYのチェルシー・ホテルで
何者かに殺害されてしまいます(まだ20歳!)。
同室には麻薬を過剰に摂取したシドがおり、
彼はナンシー殺害容疑で逮捕されなす。
ナンシーの死の真相は現在も不明ですが、
刑務所でシドが「昼も夜も彼女のことで頭がいっぱいだ。
俺が彼女を殺すなんてことありえない。
あんたが俺がナンシーを愛してたくらいに誰かを愛してたら、
絶対殺すことなんて出来ないって分かるはずだ。
彼女ナシじゃ生きていけない。二人で楽しく過ごした時の
ことばかり考えてしまうんだ」と語っていることから、
『麻薬ディーラーとのトラブルで殺害された』
『シドが麻薬の多量摂取で死んだと思い、ナンシーが後を追って自殺した』
『シドがナンシーを道連れに心中しようとし、
殺した後自分も麻薬で死のうとしたが失敗した』
という三つの説が伝えられています。
ナンシーの死から3ヵ月半、79年2月2日、
シドは彼女の後を追うようにドラッグを過剰摂取して命を絶ちます(21歳)。
彼は死の直前に母親にこう言った
「ナンシーは向こう側で俺のことを待ってるんだ。
もし急げば愛しいナンシーに追いつけるよね」。
遺書には『俺達は一緒に死ぬ約束なんだ。
こちらも約束を守らなきゃならない。
ナンシーの隣りに埋めてくれ。レザージャケットと
ライダース・ブーツを着せたまま…さようなら』
とあったそうです。
彼の遺言はナンシーの両親から反対され実現されなかったが、
シドの母親が彼の墓を掘り起こし、
遺灰をナンシーの墓に撒いたといいます。
<ナンシーの隣に眠るシド>
ペンシルバニア州・バックス郡 キング・ダビデ・セメタリー
に眠るナンシーの隣にシドの遺灰が撒かれました。
店長:源川 準
礼に始まり、礼で終わるお墓参り代行
<関東>
東京都
神奈川県