神戸市中央区のJBPシャイニングワールドスタジオ国原よあのブログ
2025年11月16日
私の師匠をひとことで表すなら――
「砂漠の砂」。
それは乾いた大地の無機質な粒のことではない。
陽(ひ)の光を受け、風の息づかいに呼応(こおう)し、瞬間ごとに姿を変えていく“生きている陽土(ようど)”のことだ。
私はその背中を、十年以上、飽きもせず追いかけてきた。
彼の足跡(そくせき)はいつも薄い。
踏みしめた砂が、数秒もすれば風に撫(な)でられ、跡形もなく消えてしまうからだ。
だが、だからこそ私は知っている。
本当に強い人は、跡を残さない。
変化に抗(あらが)わないからだ。
師匠はよく言っていた。
「固定概念こそが、人を縛る“影の砂”だ」と。
写真家も経営者も同じ。
曇り空なら曇りを活かし、逆光なら逆光に膝を折り、混雑なら混雑を味方にする。
“どんな状況も、風の流れの一部として受け入れよ”。
それが砂漠の哲学だった。
ある年の七五三の季節のこと。
神社は境内(けいだい)から参道まで、人の波が溢(あふ)れ返っていた。
赤い着物の娘が泣きじゃくり、祖父母は慣れない正装に息を切らし、親たちは時間に追われ焦(あせ)った顔。
その混雑の中を、師匠はまるで舞うように動いていた。
右へ、左へ、時にしゃがみ、時に走る。
息を合わせるように、風が彼の行く先を押し、砂のような軽さで空気をすり抜けていく。
「今、光が変わる。あの影のラインに家族を立たせて――ほら、行くぞ」
気づいた時にはもうシャッターの音が、軽やかな祭囃子(まつりばやし)のように響いていた。
あの一瞬の判断、迷いの無さ。
けれど決して強引ではない。
状況を捻(ね)じ曲げるのではなく、流れに沿って形を変えていく。
師匠の姿はまさに「砂漠の砂」そのものだった。
私はあの日、胸の奥で小さく震えた。
“ああ、私はこの人から、生き方そのものを学んでいるのだ”と。
それからというもの、私の心の中には常に砂漠がある。
湿気のない、思考がすっと立ち上がる、澄んだ砂の世界。
風が吹けば潔(いさぎよ)く形を変え、光が差せば輪郭を柔(やわ)らかく溶かす。
頑固な石よりも、砂はずっとしなやかで強い。
変化を拒まない者こそ、変化の中心に立てるのだ。
そして今。
あなたの大切な七五三、お宮参り、ご家族の節目の時間を前にして、私は師匠から受け取った砂の精神を、そっと胸に抱いて現場に向かう。
混雑した神社は、まるで砂を巻き上げる突風のように予測がつかない。
人の流れ、光の移ろい(うつろい)、子どもの表情――どれひとつとして同じ瞬間はない。
けれど、だからこそ美しい。
その“予測不能”を、私は恐れない。
師匠が教えてくれたように、状況が変わるたびに私自身が変わればいい。
風が吹けば、姿を変える砂のように。
あなたのご家族が一番自然で、いちばん輝く瞬間を逃さないために。
人の波の隙間から光が差すその一秒を、確かに掬(すく)い上げるために。
私は今日も、砂漠のように静かに形を変え続ける。
どうぞ安心して、今という季節を託してください。
風の流れを読む砂の眼で、あなたの大切な一日を、美しく、しなやかに、そして軽やかに仕上げてまいります。
土日祝は、湊川神社、生田神社、西宮神社専門のプロカメラマン
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