江東区の本堂写真館のブログ
2018年10月26日
先日、お宮参りの撮影がありました。
生まれたばかりの赤ちゃんは、何とも言えないかわいさ満点。
赤ちゃんは、両親、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚のたくさんの人たちに囲まれて幸せそう。
でも赤ちゃんは、愛想笑いをするわけでもなく、ただ目をつぶっている。
ただそこにいる。そこに鎮座している。
たまに目を開けたかと思うと、今度は顔をしかめて、手足を伸ばし、しまいには泣き出す。
周りの大人たちはそんな赤ちゃんを見てニコニコしている。
かわいい、かわいい、なんとかわいいことか。
ただそこにいてくれるだけでいいのだ。
大人になると、私とか個人とか人権とか言い出すが、
赤ちゃんにはそんなことまったく関係ないようです。
ただ赤ちゃんがいて、親がいて、親族がいる。
その光景はまさに利害や権利などといったものを超越した何か強い結びつきがあるだけのよう。
だから赤ちゃんに私とか個人なんていう言葉は不釣り合い。
むしろ赤ちゃんを囲んでいる大人たちの意思や想いが、
この赤ちゃんを生み出し支えているように感じます。
もちろん物理的には赤ちゃんも独立した個人なのですが。
この文章を書いているこの私も、
両親やおじいちゃんおばあちゃんの想いが「わたし本人」を作っているならば、もしかすると、私は「わたし本人」ではないのかもしれない。
私とはあとで取ってつけた区分コードの一つに過ぎないのではないか。ならば、「わたし本人」は私ではないから、「わたし本人」といえるのか?
あれあれ、なんだか複雑になってきました(笑)
これだけは言えるように感じます。
「私」とう考えが、悪さを働く手助けをしているのではないかと。
だから「私」のない世界は平和なのではないだろうかと。
赤ちゃんを取り囲む穏やかな光景が、この世の中に広がっていけば、
飢餓や戦争などは無くなり、思いやりと助け合いの世界があるのではないでしょうか。
お宮参りの光景は、私というこじんまりしたものを打ち壊してくれます。
きっと赤ちゃんは、私のない何かを感じ取っているのではないか?
もしそうなら、赤ちゃんにどんな感じかどうすればそうなれるのか聞いてみたくなったので、ふと赤ちゃんを見ると、また寝ていました。
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